李 鋼哲所長回顧録(連載):②東北アジア人の物語シリーズ:目次&プロローグ

目 次

プロローグ

 

目 次

プロローグ

  1. 世界に一つだけの花]
  • 不良の子牛も誠意をもって育てれば立派な牛になる
  • 「東北アジア人」—私のアイデンティティ
  • 「父親と線引きしろ] -文化大革命の嵐の中で
  • 広大な農村ではやり甲斐ある4年間の農民人生
  • 大学受験-連続の失敗から
  • 青春の絶頂期大学時代
  • 政治家の夢と挫折-共産党大学院での夢と葛藤
  • 首都北京の生活と中国社会構造に対するステレオな観察―農村と都市の格差
  • 天安門事件の衝撃と若手インテリの失望―
  • 日本留学を決断―出国こそ生きる道
  • 彷徨う10年間の留学生生活―勉強とアルバイトの両立
  • 日本の地で開拓した人生の道―苦学生から研究者に
  • 日本のシンクタンクでー東北アジアを檜舞台に
  • 日本の朝鮮族社会―アジアを結ぶ主体
  • 4つの祖国を持つ喜びと悲しみ
  • 私と朝鮮・韓国の因縁
  • エッセイ:私の体験した中国現代史
  • エッセイ:歴史認識と「洗脳教育」を如何に超克できるのか?

エピローグ

プロローグ

人生60歳になって世の中を少しわかるようになった。

聖人の孔子曰く [五十に天命を知る、六十に耳に準じる](五十而知天命、六十而耳顺)。

私は「天命を知る」年に本当に天命を知ると感じており、「耳に準じる」年(「人の話をよく聞く」という意味)を超えるようになったのである。

ところが、私にとっては人生の半分に過ぎず、今後歩むべき道はまだ長いはず。なのに、人生の途中でこのような回顧録を書くのはどうかな? と思われるだろう。

私がこの伝記を書くことになったのは3つの理由がある。

一つ目の理由は、我が家族の兄弟姉妹が一堂に集まったとき、家族史を残す価値があるのではないか、という議論があったこと。議論はしてもそれを実行するには大学で教鞭をとっている人がリーダーシップを取らざるを得ない。一つ上の兄も大学教授だが、仕事が忙しくて余裕がないらしい。

そして、私がイニシアティブをとって、8人兄弟姉妹たちに、皆さんはもう定年しているので時間的余裕があるから各自の回顧録を書いてみたらどうか?と頼んだら、1年くらいの時間でみんな原稿を書いてくれた。肝心の大学教授の兄がなかなか原稿執筆をしなくて、何年か掛けてやっと原稿を送ってきた。

二つ目の理由は、私自身も人生の中間報告を残したかった。今までは人生の上り坂であったが、これからは年齢もあることだから折り返しの下り坂に向かわざるを得ない。「上り坂よりは、下り坂がもっと難しい」(上坡容易下坡难)という中国の古典がある。もし下り坂で転がったりしたら大変なことになるかも知れない。上り坂で積み上げた経験と知恵は人生荷役立つが、体力が自然に低下することはどうしょうもないのではないか。実は品減は40代から体力が下り坂になるのが自然常識であろう。経験と知恵をうまく活用すれば、下り坂もゆっくり下れるし、たまには上り坂にあうかも知れない。スマートな老後人生を如何に歩むのか?が一つ重要な人生の課題である。

三つ目の理由は、自分が苦労して歩んだ人生の経験をいち早く若い世代に伝えて、人生で曲道を少なくするための鏡を提供したいからである。もちろん、人間は各自の人生の道があるだろうが、先輩の人生経験から学ぶことも必要だろう。私と似たような境遇にある朝鮮族の若者たちが、海外で人生の道を切り開く時に少しでも参考になればいいのではないか、と思ったからである。

 世間では「出る杭は打たれる」という諺があるように、あまりにも有名になっても人に叩かれるかも知れない中国の古典には「人が有名になるのが怖い、豚は太るのが怖い」(「人怕出名、猪怕壮」)という諺がある。しかし、世の中の人に少しでも役立つのであれば、多少自分が不利益を被ってもいいだろう、と思うようになった。

我が家族の略史

中国の近現代史100年の激動の時代を、私とわが家族(農民家族)の物語を綴ることができるのではないか?

日本が韓国を併合した1910年代から 30年代の満州国時代、そして1949年に新中国が成立してからの歴史について、我が家族の生き様を通じて読者に紹介したい。

我が家族は、中国吉林省延辺朝鮮族自治州龍井県(日本では「間島」と呼んでいて、1909年9月4日に日本と清朝との間で結ばれた『間島協約』により、同年11月2日、清の延吉県龍井村に設置された日本の領事館。1938年に閉鎖された)に暮らしていた平凡な農家であった。ところが、平凡ではない歴史の1頁を飾るのに相応しい物語がある。

我が家族が暮らした農村は貧しい地域であり、当然ながらと我が家族の生活も貧しいものであった。父親の話によると、我が祖先は全州李氏の家門であるので、李氏朝鮮の後裔のようである。お爺さんの時代には、朝鮮の咸鏡北道・明川郡・サウナム面・馬前洞という村で暮らしていたが、日帝の韓国併合と植民地支配が始まると、家族を連れて中朝国境の川である豆満江を渡って満州の地であった延辺(「間島」)の朝陽川ムルリ溝という村に移住したのが1910年代という。父親は1911年に生まれたので幼い時である。

1994年3月、両親のダイヤモンド婚挙式(父親は83歳、母親は75歳)

写真:著者(前列真ん中)の結婚式の日(1988年2月28日、於龍井):両親と兄弟8名とその配偶者達

その後、満州事変(1931年 9月18日), 満州国時代(1932-45年)を経験し、1945年には光復を迎える(日本の敗戦)。そして国共内戦と土地改革(1945-49年)の時代を経て, 中華人民共和国の成立 (1949年10月1日)を迎えるが、翌年には朝鮮戦争が勃発し(1950年 6月25日-53年7月)、戦争の被害を間接的に受けることになる。

そして、1956年の反右派闘争を経て、大躍進と人民公社(1958年~61年)時期の大飢饉を経験し、文化大革命(1968年~76年)期の大災難の影響をもろに受けたが、1978年よりやっと改革開放政策を迎えて、安定的な生活を送れるようになっていたが、1989年には天安門事件の影響で、私は日本への渡航を決意し、今に至っている。我が家族からすると近代以来の100年の歴史を中国で体験して来た。

我が家族は、地元では珍しい大家族である。祖父と祖母は1女5男を、そして外祖父と祖母は6女6男を育てた。そして我が両親は4女4男を育てた後、1995年に両親とも他界した。1994年3月に地元の龍井市(りゅうせい、中国吉林省東部、朝鮮族の集住地域)の迎賓館ホテルで両親の結婚60周年(ダイヤモンド婚)をお祝いする大規模な祝賀会を開催した。この祝賀会には兄弟8人の家族、そして、従兄弟・従姉妹ら約100名中の5割程度が参加、そして3寸~8寸(朝鮮族の親族関係を表す言葉、例えば、親子関係は2寸、叔父と甥関係は3寸、従姉妹同氏は4寸などなど)までの親族が合計約150名集い、それに地元の政府関係者や地元の兄弟の知人たちを入れると約200名の賓客が参加し、盛大に行われた。後ほど地元(延辺テレビジョン、日本の県に相当)のテレビ番組として報道されるほどであった。

このイベントは朝鮮族自治州における一つの朝鮮族モデル家族に等しく、地元の市長も参席して祝賀の挨拶を行った。後ほどは延辺州官営テレビ局が特別番組(「愛へ向かう道」というシリーズ・ドキュメンタリー)を組成し放映した。

貧しい農家出身の8人兄弟姉妹中、6人の大学生と1人の軍人将校として子育てに成功した家庭は地元では珍しかったのでテレビ番組になったのである。

我が家の兄弟を簡単に紹介すると下記の通りである。

長女は貧しい生活環境の中でも熱心に勉強して地元の延辺大学数学部を卒業し、中学教員を長く勤めた後、定年生活を送っていたが、2012年10月に病気で他界、76歳であった。

次女は貧しい農村を脱出することを夢見ていて、県立のスポーツ学校に入学していたが、自転車運動員になり、3年間に世界レベルの大会に出てメダルを獲得したが、後ほどは大学のスポーツコーチとして勤めた後、定年生活を送っている(現在82歳)。

3女は、高校では大学に推薦すると言われたが、家計が厳しかったので、地元の師範専門学校を卒業し、生涯小学校の教員を務め、定年を迎えていたが、63歳で病気により他界した。

4女は、文化大革命期に高校を卒業したので、大学に試験制度が破壊されたため、地元の農村に戻り農業に従事していたが、学力が高いということで、推薦によって延辺大学の短期研修プログラムに参加した後、地元の小学校教員を長く務めた後、定年生活していたが、73歳で病気により他界した。

長男は、文化大革命期に高校を卒業し、そのまま農村に戻って農業に従事していたが、20歳になって中国人民解放軍に入隊し、15年くらい軍人生活の末、除隊して地元長春(吉林省省都)の国営企業幹部として勤めた後、定年を迎えた。

次男は、文化大革命の影響をもろに受け、中学卒業後は農村に戻り、農業に従事していたため、故郷で両親の守り役を務めていたが、定年を迎えている。

3男は高校を卒業した後、農村に戻って農業に従事していたが、文革が終わり、大学受験制度が回復された後、第1期に吉林大学日本語学科に入学し、卒業後は地元の延辺大学で日本語教員になっていた。1989年春ころに家族同伴で日本に来て定住し、18年間暮らした後、延辺大学に戻って教授となり、定年後は韓国の釜山にある新羅大学の招聘教授として3年間日本語を教えた後、2022年3月からは、中国山東省の某大学に招聘され日本語教授を務めている。

私の略史

私は大躍進運動が始まる1958年12月(旧暦、新暦では1959年1月)に、中国全体が食糧難で飢饉に見舞われる中で生まれた、生まれてからは母親が病気で、母乳もなく、お粥もまともに食べられず、栄養不良の中で育っていた。当時は中国で流行していた伝染病ポリオを患い、貧困の中で治療もできず、障碍者(ポリオ後遺症)を残したまま、今まで生きてきている。

1960年筆者が2歳の時の家族写真(お母さんに抱かれているのが筆者)

2002年8月、白頭山(長白山)天池を背景に(長女夫婦の還暦お祝い後の家族旅行:4姉妹・4兄弟)

極度の苦難の中ではあったが、小学校から高校まで不完全ではあるが(当時は毛沢東の学生を短縮する方針のため、9年間(小学校5年、中学校2年、高校2年)で高校を卒業した。卒業後(1977年6月)は農村(生産隊という集団農業)に戻り、農業労働に従事した。3歳上の兄が1978年3月に吉林大学日本語学部に入学した後、私に手紙を送って聞き手「君も大学試験やってみたらどうか?」とアドバイスをしてくれたので、その年6月から大学受験にチャレンジ、しかし失敗に失敗を重ねながら、4年間(全国統一試験であるため1年に1回しかチャンスがない)入試に挑んだ結果、1981年9月に首都北京の中央民族大学政治学部哲学科に入学することができた。私にとっては夢にも思わなかった成功の道であった。

大学卒業後は、北京市共産党委員会の北京市委党校で初めて大学院生を募集したので、その試験に合格し(大学2年生で共産党党員になり学生リーダーとして活躍)、そこで「共産党研究」専攻を履修し、共産党のエリートとしての養成を受けたので、将来は政治家を目指していた。

1982年、大学正門前で日本人留学生の友人丸谷正延氏(左)と筆者(右)

ところが、当時の中国での政治的風雲の悲惨さ(1987年1月に胡耀邦総書記の失脚)を悟り、政治家の夢を諦め、北京の全国労働組合総会(全国総工会)傘下の中国工運学院という大学で専任講師として勤めた。

その間、1989年6月に天安門事件を目の当たりにして(事件が起こる前の学生・市民のデモに何度も参加)、中国の未来に失望した。人生を彷徨う中で、兄が日本に移住し、東京にある日本語学校の入学手続きをしてくれたので、大学の専任講師の職を辞め、日本留学の道を選ぶことにした。

1991年の5月、人生初めの海外体験として北京空港から成田空港に向かって旅立った。お金もなく、裸一貫での留学だった。そして、生計と学費のために一所懸命にアルバイトしながら独学し、後ほどは立教大学大学院の経済学研究科修士課程に入学した。そこで博士課程まで勉強しても日本で就職することはほぼ不可能だったので、人生の道を彷徨っていた。

研究活動の中、たまたま人生の出会いで、生存の道が開かれた。大学院では東北アジア(環日本海)経済圏の構築に関する研究をしていたので、東京にある環日本海総合研究機構(INAS、環日本海超党派議員フォーラムと国内有数な研究者たちにより設立されて一般シンクタンク)と出会い、そこで政策研究プロジェクトとして「北東アジア開発銀行」の創設に関するフィージビリティ研究」というテーマで、2001年に東京財団(笹川財団の子財団で国の政策研究をする財団)に助成金を申請したが、見事に許可が下りて、たまたま運よくその研究プロジェクトのコーディネートとして、東京財団の研究員になった。そこで1年半の調査研究を実行し、その成果として政策提言書を作成し、日本政府の小泉純一郎首相宛に政策提言を行う機会に恵まれた。

2002年7月29日に、当時内閣府官房長官であった福田康弘官房長官にアポを取り、研究チームのリーダーとともに内閣府に入り、直接政策ブリーフィングを行うという、私にとっては想像もできなかった奇跡的なことが起こった。

その成果が後ほどの人生の道を開くのに大きな役割を果たした。2003年4月には名古屋大学経済学部の平川均教授が私を外国人招聘研究員として半年間、国際経済動態研究所で自由に研究する機会を提供してくれた。

丁度そのころ(2003年夏)に、日本政府内閣府傘下の総合研究開発機構(NIRA)で初めて若手研究員を公募していたので、それに応募し見事に合格した。同年11月から3年間NIRAの研究員・主任研究員を務め、東北アジア地域協力に関する日中韓3ヵ国の国策シンクタンクによる共同政策研究に従事することができた。3カ国語が自由に駆使できるという自分の強みを生かすことができ、東北アジアおよび世界を檜の舞台として行き来しながら3年間の研究生活を送ってきた。人生にとって最も輝く時期であったと思う。

3年間契約期間が終了し、2006年11月より金沢にある北陸大学の教授に転身。それも不思議な縁で、2000年8月に台北で開催された「北東アジア地域協力に関する国際シンポジウム」に参加した時に、北陸大学の北元喜朗理事長(当時)に出会って、彼に気に入られ、誘われて北陸大学に就職するようになった。

以上の家族略史の紹介でもわかるように、我が家族は中国の近代史・現代史の中で、貧しい農村で暮らしながら、姉妹兄弟たちの献身的な努力の結果、各自が成功の道をたどり、現在は中国、日本、韓国3カ国を生活の舞台に、檜の舞台に活動している。

私自身も現代中国の怒涛の歴史の中で、波乱万丈の人生の道を歩み、本日に至っている。中国生まれの朝鮮族で、日本に来てからは東北アジア地域を檜舞台に活動しながら経済共同体構築に向けて頑張ってきた。

そのような自身の経験談を通じて、若者たちの人生に少しでも役立てることができることを願って、この自叙伝を書く次第である。

 

 朝日新聞の記者が書いた記事を通じて、少し自己アピールをしたい。

 見出し:「アジア人」を紹介します。

『朝日新聞』永持裕紀 (「動く中国とつきあう」研究チーム)

 2003年2月25日、朝日新聞アジアネットワーク(AAN)と韓国の東亜日報21世紀平和研究所、中国の現代国際関係研究所が合同で、「急展開する朝鮮半島情勢-北朝鮮の動向を中心に」がテーマのシンポジウムを朝日新聞東京本社内で開きました。ANNは昨年、ふたつのシンクタンクと個別に提携関係を結び、定期的な交流活動を続けていくことを決めました。その第一弾です。

シンポジウムでは、核開発問題を通じた北朝鮮の国際社会への揺さぶりの狙いや真意をどう見るか、そして、武力ではなく話し合いにより北朝鮮の行動を変えていくにはどうすればよいかをめぐり、活発な議論が続けられました。詳細は3月6日付朝日新聞朝刊に掲載する予定です。

シンポジウムでも発言した一人、李鋼哲・新世紀アジア人開発研究センター理事長(43)を紹介したいと思います。李さんは中国吉林省延辺朝鮮族自治州出身の朝鮮族です。北京の中央民族大学で哲学を学んだ後、将来を嘱望される共産党員が学ぶ北京市党校大学院に進み、「党建研究科」を87年に修了しました。「党建」とは党の建設であり、変化する中国社会で共産党の影響力をいかに確保するかを研究する中枢部門です。栄達を約束された道を、けれど李さんは捨て、90年代から日本に留学し、環日本海総合研究機構、東アジア総合研究所、東京財団などで研究活動を続けます。昨年からAANコラムニストとなりました。

1986年の胡耀邦・党総書記(当時)失脚、89年の天安門事件によって、予測の難しい中国政治に深入りして、人生を「不安定化」することを避けようと思ったことがひとつ。そして、中国の政界で栄達するためには次の3条件が必要だということに気づいたためだといいます。ひとつは能力があること、次に人間関係に恵まれていること、そしてゴマすりがうまいこと。

能力は別にして、あとのふたつ、特に思ったことを言いたい自分にはゴマすりができないことを自覚して、研究者の道を選んだといいます。中国のパスポートを持っていますが、日本をベースに世界各地に出張します。中国にいるよりはるかに動きやすいと言います。

昨年4月に平壌に行ったときは、「朝鮮族」同士として北朝鮮の人々と話してきました。そうした語らいを通じた李さんならではの北朝鮮観があるようです。その一部は、3月6日のシンポジウム紙面でも紹介しようと思っています。

中国は北朝鮮の現状をどうみているか。

中国が最も恐れているのは北朝鮮の体制が崩壊し、韓国が吸収合併する形で南北統一が実現することだ。その場合は在韓米軍の位置づけも変わる可能性は薄いとみられる。すると、理論的には中朝国境の鴨緑江まで強大な米軍事力の影響下に入ってしまう。そうした事態を北京は絶対に避けたい……。

こうしたパワーポリティクスの見取り図を、李さんは「こうした考え方もある」という感じでさらりと語ります。自分はもう国家のゲームには関心ないんですが、と言いたげに。そして、自らを「もうナニジンか分からなくなってきたからアジア人と言い始めているんです」と話す。国に過剰に頼ることのないアジア人。中国共産党員としての栄達を未練気なく手放した李さんのような人は、「アジア共同体」を一足先に具現化している人なのかもしれません。 (2003年2月28日『朝日新聞』朝刊)

この記事で書かれている「アジア人」を目指すのが、私の今までの研究や活動のモットであり、これからの人生においてのモットでもある。

100年前のアジアを振り返ると、「貧困のアジア」、「相互葛藤のアジア」、そして「欧米に遅れたアジア」というイメージが浮かび上がる。それから100年経った現在、アジアは昔のイメージを払拭し、新しいイメージを造り上げなければならない。それは「豊かなアジア」、「開かれたアジア」、「自由なアジア」のイメージを作り上げ、そして最後にはアジアに平和と繁栄の共同体を構築することが、我々の夢になるべきであり、その夢を実現することが我々の使命になるべきであると、筆者は常々心の奥で考えている。

実は、現在アジアはドラスティックに変化しつつあり、様々な波乱曲折はあるにせよ、時代のうねりは私が夢見た方向に進みつつあると感じている。